著者紹介
(有)実装彩科 代表取締役;斉藤和正 1959年京都生まれ。
幼少は東京で育ち、街に転がっていた真空管式テレビを解体したりスピーカの磁石を外して遊んでいた子供であった。1980年、日立系列大手セットメーカに入社、以来28年間プリント板・実装技術一筋に生きる。5年前に自分の責務は完了したと考えて後輩に業務を委ね、現在は外に出て技術コンサルを担当。入社当時、プリント板の実装密度はピン間1本レベル。やっと一人で仕事をさせてもらえるようになった1983年(昭和58年)、プリント板業界は高密度実装に一気に加速した時代でこの時代と共に自分自身のプリント板知識の研鑽に励んだ。特許明細書を良く読んだ。
在職20才台の時代、プリント板は専業基板メーカから購入していたので基板メーカの新規開拓、認定・信頼性評価とともに設計規格を作成して色々な製品へ適用した。コストダウンのため、台湾の基材や米国の基材の評価を行い、現地調査と共に製品適用を軌道にのせた。その後、中国基板の輸入も行った。
30才台は短納期・高品質・少量をモットーに小規模であるが内作基板の職場を構築した。左図に示すように小はμm(プロセス)から大は建屋まで、原価、人員、工程管理、全てに渡り担当した。そして、自分の職場で作った基板をまだ、温もりが感じられる中、自動挿入・装着をしてセットに組み込み出荷を見守った。そして、退職するまでテストクーポンを保管し、不具合が出ないよう監視した。
30才半ばで課長になってからは、内作職場を担当する傍ら、はんだ付実装関連も守備範囲となり自部門の人たちと一緒になり実装技術の推進に寄与した。メタルマスクも範疇となった。ここまでの業務は単に歳をとるたびに上乗せされていき、40才になろうとしたときも20才代の仕事の守備範囲はそのままだった。
とりわけ、種々のプリント板開発でのスルーホール接続信頼性には格別にこだわりを持ち続けた。信頼性の著書は読みあさったがフィールドとの加速率を示した文献は極僅かで、昭和47年に発表された唯一の文献を手がかりに自分なりの考え方を作り、退職までの23年間その基準を変更せず、製品の寿命まで見届けた経験がある。この基準はもちろん品質管理と両輪ではあるが、現在巷で取り上げられている基準よりは随分緩いものである。しかし、事故は幸い一度も発生させなかった。
この基準を適用した製品は信頼性保証に厳しいものばかりで、放送用カメラ、コマーシャル自動放送機、防災無線、空港納め携帯無線などである。車載系もあり、鉄道では新幹線の列車無線、車では業務用無線、タクシー無線である。特に、台湾の基材を使った基板は広大なアメリカを走り回る車に大量に取付けた。砂漠でもし電波が出なくなったら命とりになりかねず信頼性の確保に気を配った。
幸運であったのは、20才半ばでオール日立グループの各事業所でのプリント板の第一人者が集まる部会があり、そこに18年間所属させていただいた。各事業所を回るので色々な製品知識を学べるのと、部会の中にマイグレーションを評価するワーキンググループがあり、そこで約10年活動させていただいたことで絶縁信頼性についても詳しくなった。絶縁寿命予測式を理解している一人である。
こと信頼性について、自分で作成した設計基準でプリント板を自身の手で作り、あるいは基板メーカから調達し、その板を高信頼度が要求される製品へ適用し、かつ、その製品の寿命を見届けるまでの期間在籍していた経験はかなり貴重であると考えている。
しかし、30才代半ばになるとプリント板知識の取得方法に限界を感じ、社外の有識者の方とつながりを持てるようになれないかと考えた。先ず、1999年に東京で開催された「ELECTRONIC CIRCUIT WORLD CONVENTION8」にポスター発表だったが挑戦した。このきっかけが功を奏し業界で著名な方々との繋がりができ始め、このあと、JEITAの「日本実装技術ロードマップ2001 / 2003年版」の委員を担当する機会があり、国内外のプリント板の技術情報を横断的に接触できる機会を得られた。
2005年には以下の著書にほんの一章ではあるがプリント板業界の先輩方々に混じって執筆を担当する機会が得られた。業界で好評の著書となっている。現在、中国語への翻訳が計画されている。
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